平成15年12月6日の日経流通新聞の一面に大きく取りあげられた豆腐屋がいた。(株)おとうふ工房いしかわの代表取締役 石川 伸氏である。新聞の大見出しには「豆腐の見方一丁変える」とうたわれていた。さらに—家業の零細豆腐店を継いで十二年。デフレに逆行、「いい豆腐を高価格で」世に送り、売上高を五十倍に延ばした男がいる。おとうふ工房いしかわ(愛知県高浜市)の四代目社長、石川 伸(40)だ。——その石川さんの講演があるというので出かけていった。会場は山科にある明治25年より続くお菓子問屋「青木光悦堂」。弊社とは創業以来お付き合い頂いている会社である。

東名高速の工事と事故による大停滞で1時間遅れて現れた石川さんは、丸い顔、丸い体型短い足(失礼!)まるで大豆が歩いているようである。「動く豆腐店の看板みたい」が第一印象であった。

創業は明治二十四年。とは言っても当時の豆腐は家庭料理の一つで、豆腐は各家庭で作られていたのだ。従って先代までは農業のかたわら豆腐製造をする兼業農家であった。小学三年生の夏休みの日記には、毎日のスケジュールとして朝6時30分からラジオ体操。これはどの子も同じだが、そのあと7時から12時まで「仕事」と書かれてあった。これを今でも鮮明に覚えているという。豆腐屋には休みが無く、両親とも働いているので幼い石川氏が一家の夕食を作ったという。雨が降り、小学校に父親が前掛けゴム長姿で傘を持ってきてくれたのがたまらなく恥ずかしく、一種のトラウマとなった。サラリーマンに強くあこがれていた子供時代を過ごした。この状況からずらかるには東京に進学するしかないと、入学したのが何故か日本大学食品工業科。大学時代に彼女ができ、その彼女は卒業後も東京に残ると言い出したので氏も修行と称して商社系食品メーカーに勤務する。五年後家業を継ぐため退社。彼女の実家に結婚の承諾を得に行くが、親に自営業者それも豆腐屋に娘はやれないと言われ、付いてくると思いこんでいた彼女も親の意見を受け容れた。トラウマ復活。

立ち直りの早い氏は、27歳の時新しい彼女が。「豆腐屋なんですが、結婚を前提にお付き合い願いますか?」。そしてめでたく結婚。豆腐屋は休みもなく、重労働の割には売上は上がらない。当時年商三千万であったが五千万借金して機械設備を購入した。豆腐は大量に出来る様になったが売れなかった。地元のスーパーなどを回ったがアポイントメントも取れないこともあった。バイヤーに「大手には勝てないよ。やめたら?」とも言われた。ある日豆腐の業界誌が取材に来た。業界誌に取って機械メーカーは一番の広告スポンサーである。機械の購入と業界誌の取材掲載はいわばセットになっているのだ。取材後、各地の豆腐工場を見慣れている記者に「大丈夫ですか?」と言われた。機械設備はあっても、豆腐が売れない日々が続いたが、1年後長男が誕生した。子供の寝顔を見ていて、今自分が作っている豆腐をこの子に食べさせて良いのだろうかとの思いが起こり、国内産の大豆とにがりを使って豆腐を作ろうと思い立ったが、先代に聞いてもにがりの使い方は誰も知らなかった。

豆腐は中国から約1300年前、遣唐使によって日本に伝わったとされている。今でも中国の豆腐は、生の大豆をすりつぶした後布で絞って豆乳を得る。中国では豆腐は麻婆豆腐などの料理素材として使われるため、豆乳濃度の低い製法でも可となるが、日本人は大豆を茹でた後にすりつぶし呉汁(豆乳)を得ている。高温多湿の日本では、豆腐を生で食べる習慣が定着し、蛋白含量が高い大豆の、濃い濃度の呉汁でなければその需要に応えられないからだ。

石川さんもよく「無添加の豆腐を作って下さい」との要望が寄せられるそうだが、豆腐や蒟蒻は添加物である凝固剤が無ければ作れない。昔は凝固剤として「にがり」が使われていた。JTの塩は何時までもさらさらしているが、所謂自然塩と称する塩は放っておけば湿り気を帯びてくる。それを塩の塩溶性という。塩の詰められた俵の下に受け皿を置いて得られる液体が「にがり」である。主成分は塩化マグネシウム。これを豆腐の凝固剤として使いだした先人の知恵には頭が下がる。日本の塩文化の賜だ。

先代がにがりの使い方を知らなかったのは理由がある。太平洋戦争中、にがりが統制品に指定され、民間では使えなくなったのだ。軍用機の機体は鉄とアルミの合金であるジュラルミンで作られていた。その合金を作る際の触媒として、またガソリンのアンチノッキング剤として、にがりに含まれるマグネシウムが使われたからである。しかしながら豆腐そのものは逆に推奨品であった。豆腐は水増し出来るしオカラも貴重な食料とされたからである。禁じられたにがりに変わり、凝固剤として使われたのが硫化カルシウム、石膏だった。陶器を大量生産するときに型として使われる石膏を砕き粉にして得られる「澄し粉」がそれだ。

日本の豆腐が冷や奴でも旨いのは、大豆に含まれるグルタミン酸が塩化マグネシウムと反応してグルタミン酸塩となるからである。澄し粉は強い凝固力を持つが大豆の持つ旨みを引き出すことはない。戦争が終わり、昭和20年代になると豆腐屋の数は一挙に3倍となった。復員してきた人、空襲で焼け出された人、八百屋・・・。石膏を使えば素人でも手軽に豆腐を製造出来ることが豆腐屋の数を押し上げたと同時に、にがりを使う食文化が分断したのである。さらに昭和40年代になると、自由貿易の一番に解禁になったのが大豆であった。目的は搾油であったものの、それまで50万トン作られていた国内産大豆は大打撃を受け、以降豆腐と言えば輸入大豆と硫化カルシウムとの組み合わせになった。先代は昭和8年生まれ。豆腐製造に従事した時には、にがり豆腐は消滅していたのである。

そこで石川氏は独自でにがり豆腐の研究を始めた。豆腐の業界は閉鎖的で誰も教えてくれない。文献を読み、試行錯誤を繰り返して豆乳の炊き方を覚えた。しかし、一番の難問はにがりの打ち方であった。硫化カルシウムを使えば10秒かかる凝固も、にがりを打つと豆乳は3秒で固まる。たった3秒の間に50リットルの豆乳ににがりを均一に混ぜ込むことは難しい。最終的に考え出したのが「櫂寄せ」という方法だった。和船をこぐ櫂の小型で桶の中の豆乳をかき混ぜ渦を作る。頃合いを見て櫂を垂直に立ててやると、横方向に渦巻いていた豆乳は突然の障害に当たって今度は縦方向に流れが変わる。そのタイミングでにがりを打つのだ。にがりの量は1%。豆乳10リットルに100gである。こうして出来たにがりと国内産大豆を使った豆腐は店頭に並べられたが、豆腐一丁50円の時代に150円の豆腐は一日僅か30丁しか売れなかった。

つづく