12日に父親の一周忌を終えた。昨年12月12日に亡くなった丁度命日に当たる。私の父は大正の最後の年15年に生まれた。広島に原爆が投下され多くの人々が虐殺された日、広島市より西に20Km程離れた廿日市にいた。それだけ離れていても二階の東向きのガラス窓は爆風で全て割れてしまったらしい。二三日して父と祖父は救援のため動員され広島に入った。そこで祖父は被爆し長年苦しむことになるのだが、父はどういう訳か発病せず済んだ。私達兄弟が幼い頃鼻血でも出そうが、白血病ではないか、原爆二世ではないかと両親はずいぶん心配したそうだ。

私が生まれた当時、父は大分市においてゴム長、地下足袋、ケミカルシューズ等を扱う問屋業を営んでいた。結構大勢の従業員を抱え、中には住み込みの者もいたので母は(今気づいたけど、「母は」と入力するとき「ははは」とボタンを押すのね。ははは)家族と従業員の食事の支度は大変であった。まだ都市ガスは無く、調理は全て竈で行っていた。幸い商品の梱包に木が多く使われていたので燃料には困らなかったが、冷蔵庫もなく、後日買ったがそれも氷で冷やすタイプのものであった。そんな幼い日の経験が私の「食」の原点になっているらしい。

というのは、当時当然スーパーマーケットなどなく、生鮮食品は必ず近くの竹町商店街やトキハデパートまで毎日買い回るのに母は殆ど私をつれていってくれた。漁港から運ばれた新鮮な魚介類(私は小学1年生から京都に来たのだが、暫く京都の魚は食べられなかった)や農家が持ってくる取れたて野菜を専門店で毎日買い物するのは楽しかったし、店主や奥さんとの会話はより楽しかった。それが幼稚園児にしては生意気なほど食品に関しての知識が積み上げられることになった。また、当時大分のような地方都市には醤油や味噌、酢の蔵や油の小規模な工場などが身近にあった。配達が多かったが、たびたび遊び方々買い物に行ったものである。夏場、瓶に入った醤油は表面に白い菌の膜が張る。それを柄杓ですくい取るのは私の役目であった。竈で炊いたご飯は美味しかったし(白米だけでなく麦も混じってたけどね)銀杏やにんにくを竈の残り火に突っ込んで焼くのがおやつ代わりであった。

詳しいいきさつは知らないが父は大分駅前のビルを買い取り、喫茶店を始めた。思うに、趣味であったオーディオを自分で聞いているのに飽きたらず、多くの人に聞いて貰いたいと考えたのだろうと思う。父は自分では料理はしない。遠い昔、アラジンの石油ストーブの上で銅製の卵焼き器を使いフレンチトーストを作ってくれた。それが父に食べ物を作ってもらった唯一の思い出である。おそらく父はインスタントラーメンも作れなかったに違いない。しかし味には極めてうるさかった。誰でも母親の作る料理にその人の嗜好が左右され、味についての方向性が定められるのだろうが、手前味噌で申し訳ないが私の母の作る料理は客観的に見ても旨いと思う。それはグルメな暴君に仕える料理人が腕を上げていくのと同様だったのだろう。それに母の創意工夫が加わり完成したものだ。

その後色々事情があり私達一家は母の里である京都に出てきた。暫く母の実家に世話になっていたが、父は今の下鴨店がある土地を買い、喫茶店を始めたのだった。作った建物は変わっていて赤と白に塗装された三角形であり、前庭が芝生で周りにバラの生け垣が設けられてあった。よくオーディオ製品や自動車のパンフレットの写真に使われていた様だ。その後隣りにレストランを併設したが、一階は京都では始めてのオープンキッチンで、めずらしさも有り非常に繁盛していた。

中学生になるとクラブ活動のない日や休日は店を手伝うようになった。ウェイターは勿論喫茶業務全般をこなし、私のたてたネルドリップの珈琲はお客にも評判がよかった。レストランの方はタマネギや人参を切ったり、マヨネーズやドレッシングを作ったりといった下ごしらえから始めたがハンバーグを手で混ぜる時の冷たさはたまらなかった。暫時ホワイトソースの作り方やローストビーフやステーキの焼き方など覚えていった。つまり家にいながらコック修行していた様なものである。勿論本格的な修行などではなく興味と好奇心で家業を手伝っていただけだが、料理に対するセンスや基本的調味料の使い方、だんどり等が自然に身に付いたように思える。

さて、味の暴君である父はしばしば料理人とその点で対立した。今はどうだか知らないが当時の料理人の世界は一種の徒弟制度で、トップが辞めると見習いの者まで付いていった。その繰り返しに父は辟易し喫茶・レストランを止めてしまった。当時私は大学4年で卒業論文に忙しかった。

それまでの建物を取り壊し新しくビルを建てたのだが、一階部分はある人が当時まだ珍しかったコンビニをしたいと言うので貸すつもりであった。どうゆう分けかその人の計画が頓挫し、コンビニという新しい商売に興味を持っていた父は自分で始めた。京都の食品問屋をフランチャイザーとする組織に加わったが、ロイヤリティーに見合うバックアップもなく仕入れや販売にあまりに制約が多かったので、根っからの商売人である父は約2年で脱退してしまった。私は当時輸入車販売会社に勤務していたがそこを辞めて家業を手伝いだした。

私が35歳の時突然父が「来期からお前が社長をやれ。」と言い出して驚いた。それまで毎日中央市場に仕入れに行ったり、取引先との商談や支払い、陳列やPOPの作成、レジまで実務全般は出来たし自信も持っていたがそれ以外は全て父の分野で、例えば金融機関とのつき合いや税金関係など全く何も知らなかった。有る程度アウトラインを私と弟に教えて、父は引退してしまったのである。

その後父は会社の経営について死ぬまで一言も自分の意見を言わなかった。でも大層心配はしていたようだ。隣地を買って店舗を拡張し質販店を目指そうとしたとき、父の頭は円形脱毛症で大変なことになっていた。それを見て会社を潰してはならないと当時は一生分働いた様な気がする。父の75年の生涯の内、引退して会社が軌道に乗り始めてからが一番幸せな時間だったと思う。性格が穏和になり、好きな音楽とゴルフの日々が過ごせた。以前に増して来客も多く、退屈はしていなかった様だし母とあちこち旅行にも行っていた。死者の時間は止まったままだが、生きてこの世に生活する者にとって時間は残酷なものだ。一度だけの人生なら、さてこの先どう生きていこう。

【おまけ】
父の葬儀の時のこと。経と、父の好きだったバッハの無伴奏バイオリンバルティータが流れる中、参列下さった方々が次々と焼香をして下さった。私は焼香台の真横で立礼をしていた。頭を上げると次の焼香者はアベルで、神妙な表情で台の前に立ち遺影と遺族に礼をした後おもむろに手を伸ばした瞬間、私は心の中で「あっ!」と叫んだ。アベルの顔は苦痛にゆがみ泣きそうだが声は必死にこらえている。延ばした右手をかばい一つ飛び上がった。
そう、彼女は焼香ではなく、真っ赤にいこった炭を掴んでしまったのであった。