それでもその美味しさは近所の人達からしだいに口コミで広がっていった。ある時地元のフリーペーパーが取材に来た。高いが旨い豆腐を作っている店があるという評判を聞きつけてのことだった。しかし届いたフリーペーパーの見出しは「大学出の豆腐屋」だった。

そのフリーペーパーを見て、あるスーパーの店長が訪ねてきた。バブル崩壊後、小売店はディスカウントと質販店の両極端に流れていった。その店長も価格訴求の豆腐ばかりでなく旨さに重点を置いた豆腐をおいてみたいと思ったのだ。豆腐売場の1割を貰った。後の9割は大量生産された石膏と輸入大豆の豆腐である。次第に売場が2割、3割と増えていった。お客同士の口コミは勿論、大きな影響を及ぼしたのは店のパートさん達からの情報だった。体を楽にしたい、金儲けがしたいと機械を入れ、売りに回ったときには売れなかった豆腐が売れ出した。自分の欲を離れ、高くとも旨い豆腐を作ったことが石川氏の転機となったのだ。生協からも声が掛かった。商品の共同開発、共同購入も始まった。売れるのは結構だったが国内産大豆が足らなくなった。国内産の大豆は生産者から農協、経済連といった何段階も経て販売されている。さらに減反政策の見返りに大豆生産には交付金が出る。農家は9月に米を収穫すると11月に麦を播種し、翌年5月に収穫する。その後6月末に大豆を植え12月末に取り入れる三毛作を行っている。石川氏は直接生産者とのつながりを求めて農家を回った。

農家と親しくなり、薫製の鮎を魚にどぶろくを飲み、話をし、農業の勉強をしていく内に次第に飯を喰い、生活している農家がいることに気づく。消費者・豆腐製造者の視点からから農家の視点で農業を見ることが出来るようになってきた。無農薬の大豆を求めていたが、それは無理だと気づいたのである。夜盗虫という害虫がいる。ヨトウガという蛾の幼虫で雑食性が強く、昼間は土の中に隠れているが夜になると這い出してきて、一夜のうちに農作物を食い荒らす。5年前、大分県宇佐市でこの夜盗虫が大発生した。大豆をはじめ畑の全ての作物を食い尽くし、それ以上餌がないため土中にも戻らず、庭といい道といい車がスリップし子供は学校へ行けない程であった。

農薬は使わないに越したことはない。しかし、農家の現状を見れば必要悪ではある。それでは一定のルールを作って、栽培履歴をきちんと伝える事が大事かつ必要なのではないかと考えた。トレーサビリティーなんて言葉もない時である。例えば、雌が雄を引き寄せるために分泌するフェロモンという物質がある。フェロモンをしみ込ませた粘着ボードに一定量の害虫が掛かると薬を使う、といったルールを作り適切な管理をして栽培履歴をきちんと伝えるのが「石川ルール」である。食品添加物でも同様だ。「かんすいを使わないラーメンはラーメンではない。玉子で黄色くして無添加ラーメンと称しているものも有るが、あれはただの細うどんだ」と氏は言う。しかし同じベーキングパウダーでもアルミを含まないものがいいし、重曹のほうがもっといい。

こうして農家とのつながりを強めていったおとうふ工房石川では、毎年社員を10名ほど連れて農家に「農泊」に行っている。播種・草刈り・収穫などを体を使ってお手伝いするのだ。その作業や、「草の萌える香」を通して豆の袋の先には「いい大豆を作ってくれる」人がいることを実感する。昼時は西瓜やおにぎりが差し入れされ、食後から午後3時までは昼寝をする。この「農泊」から思わぬ成果が出てきた。会社に戻っても社員同士、先輩・後輩に関係なく「教える」「手伝う」、あるいは「有り難う」という挨拶もが素直に出来るようになった。やらされているのではなく、自分は何をしなければならないかという姿勢に変化し、自然発生的に協力関係が生まれたという。

27歳の時、自分達の利益のために機械を導入して増産したが全くと言っていいほど売れなかったが、想いが農家とお客様の方向に向いて、手間は掛かるが美味しい豆腐をつくるようになると値段に関わらず売れるようになってきた。社員も同じ想いを持ち仕事に自信と誇りを持って働いている。