私は普段、占い・迷信・ジンクス・お守り・暦など信じていないから、仏滅にへっちゃらで店を新装オープンしたりする。その反面極度の恐がりで幽霊・生霊・死霊・妖怪・もの化・おばけ・座敷わらしの類には滅法弱く、ホラー映画などテレビの予告を見ただけで全身に鳥肌が立ち風呂桶が怖くなってしまう。この著しく整合性を欠く自身の性格については、これまで生きてきて実は一度も意識したことは無かった。

例えば、数十階建てのビルから花が植わったままの植木鉢(お約束では何故かチューリップ)が落ちてきて通行人の頭を直撃する事故。もしこの事故の被害者が数秒早く、あるいは遅く歩いていたら頭直撃は無かったはずだ。当たった人は頗る運の悪い人と言えるだろう。植木鉢が落ちてくる事はそうそうあってはたまらないが、交通事故の危険は日常的に起こっている。「ヒャー!」とか「ワーッ!」とか「グェー」とか「オンドリャー!」とかは運転者・歩行者・自転車に限らず、日頃少なからず経験しているはずである。しかし大抵は不幸な結果とならずに済んでいて胸をなでおろし「あー怖かった」で終わる。そして多くの「あー怖かった」から大きな事故が起こってしまうのだ。

台湾旅行に出かける前日。宇多野店からの帰りに病院に行く途中、丸太町を東へ進み堀川通との交差点直前に差し掛かった。当日は御所の一般公開で道は非常に混んでいて、左車線は交差点の向こうまで車が詰まっていた。直前の信号は赤で2台の車が停止していて私もブレーキを踏んで徐行に入ったとたん、車と車の隙間から突然青いものが飛び出しボンネットとフロントガラスにドンと当たった。それがA君だった。私にとって初めての人身事故。不幸中の幸いと言うべきか低速だったので、暫く痛い思いをさせてしまったがA君は打撲だけで済んだ。その後A君とはお友達状態である。

車を運転すると言うことは、仮に運転者に過失が無くても責任を問われる。それは「自動車は事故を起こす」という前提が先ずあり、それでもどうしても運転するなら何か起こった場合はあなたに責任を取って貰いますからね。という無過失責任論を根拠としているのである。私有地と緊急避難を例外に、日本国内では誰でも車の運転の不作為義務が課せられている。しかし一定の交通法規と車の構造的知識を学習し、実技の訓練を受けて試験に合格した者のみ、その不作為義務が免除されるのである。運転免許証というのは実は大層なものだったんだよ。

しかしこれだけでは済まなかったのだ。台湾で元気を貰って帰ってきてすぐ、京都産業大学の前の道を東へ車を走らせていると、前方約50メートルを一匹の猫が横断して大学の植え込みに潜り込んだのを確認したのでそのまま車を進めると、いきなりボコッと音がした。ルームミラーで後方を見れば、先ほどの猫が道路の中央でうずくまり暴れて入るではないか。停車させようとしたが、いきなり立ち上がり凄い勢いで再び植え込みに逃げ込んだ。ああ良かった。猫であっても殺生は嫌なものだ。で、目的地に着き車を調べるとフロントのスポイラーが一部欠損していた。猫のヤロー(怒)

ごく一部の人達は私を中年暴走族のリーダーの様に思っていると聞き及んでいる。しかしこれはとんでもない誤解で、「人を見かけで判断してはいけません」という格言の典型的かつ画に描いたような事例なのだ。そりゃね、若い頃には魚釣りに熱中して、自宅から福井県小浜の渡船屋まで真夜中の山道をぶっ飛ばし一時間以内で走ったなんてこともありました。最大トルクを得るためエンジン回転数を一定に保ち、助手席に座る者(小浜に着く頃は大抵ヘロヘロになって居りました)の目にも留まらぬダブルクラッチ、下りの急カーブはヒール・アンド・トゥーを使いドリフトで曲がっちゃうなんてこともしてました。でもね。今ではちゃんと更正し、制限速度はどんなにあおられても厳守し、一端停車は停止線で必ず止まり、黄色の信号はちゃんと停車します。譲るべき時は譲り、入りたい車はどうぞどうぞウエルカム、登り優先、車間距離。今では常に安全運転を心がける優良ドライバーなのだよ。

しかし事故はこれだけでも済まなかったのだ。先日宇多野店に行くため、金閣寺や仁和寺を経て高雄や嵯峨野に至る、地元では観光道路と呼ばれる道を走っていたらいきなりポンと音がした。今度は墓地から飛び出してきたイタチ君をはねてしまったのである。事ここに至り、私の中の不信心部分より極度の恐がりが勢力を拡大しついには制覇してしまった。つまり「愛車スズキ・エブリー」が「呪われた愛車スズキ・エブリー」に変化し、ついには「恐ろしい呪われた愛車スズキ・エブリー」にまで至ってしまった。

と言うわけで車を買い換えることに相成ったのである。次の車は「農道のポルシェ」の称号を冠せられ、道行く人々の垂涎と羨望の視線を受け、若い娘に携帯カメラを向けさせる、その名は「スバルサンバー」。
勿論登録ナンバーは「911」だよ。